(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

統合失調症の「悪口が聞こえてくる(幻聴)」を理解する(3/5)【統合失調症理解#1】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.8


 くどいかもしませんけど、いま見たところをもうちょっと詳しく確認してみます。


 男性患者さんには自信があったのではないかということでしたよね。自分が周りのひとたちにも内心悪く思われているのではないかと気にしているはずはないという「自信」が、って。だけど現実はその「自信」とは背反していた。実際、男性患者さんは、家族からの電話をきっかけに、そうしたことを気にするようになっていた。


 このように「自信現実とが背反するに至ったとき、みなさんならどうします? そういうとき、みなさんにとれる手は、つぎのふたつのうちのいずれかではないかと俺は考えます。

  • A.その背反を解消するために、「自信」のほうを、「現実」に合うよう訂正する。
  • B.その背反を解消するために、「現実のほうを、「自信」に合うよう修正する


 で、男性患者さんがとったのはどちらの手でした? そう、後者でしたね。自分が周りのひとたちにも内心悪く思われているのではないかと気にしているはずはないとする自信に合うよう、男性患者さんは現実をこう解釈したのではないかとのことでしたね。


「小遣いばかり使って」とか「お菓子ばかり食べて、あんなに太っている」といった悪口が聞こえてくる、って。


 いま見ましたところを箇条書きにするとこうなります。

  • ①周りのひとたちにも内心悪く思われているのではないかと気になる(現実)。
  • ②自分がそうしたことを気にしているはずはないという自信がある(現実と背反している自信)。
  • ③その自信に合うよう、現実をこう解釈する。「ボクの悪口が聞こえてくる」(現実修正解釈)。





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2021年8月3,11日に文章を一部修正しました。


*今回の最初の記事(1/5)はこちら。


*前回の短編(短編NO.7)はこちら。


*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

統合失調症の「悪口が聞こえてくる(幻聴)」を理解する(2/5)【統合失調症理解#1】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.8


 早速はじめます。


 たびたび文章を引用させてもらっている、岡田尊司精神科医の著書『統合失調症』(PHP新書、2010年)から、統合失調症と診断されたつぎの男性患者さんに登場してもらいますね。この男性患者さんがほんとうは、(精神)医学の見立てに反し、「理解可能」であることを確かめていきますよ。

 家族から、よく電話で浪費を諫められている男性患者は、電話でガミガミ叱責された後で、幻聴がすると訴えた。幻聴は、「小遣いばかり使って」「お菓子ばかり食べて、あんなに太っている」と自分を非難する内容だった(同書p.95)

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

 


 みなさんはこの男性患者さんのことをどのように思い描きましたか? 俺はこんなにふうに思い描きました。


 男性患者さんは電話で家族に浪費を諫められたあと、ひょっとすると他のひとたちにも、「小遣いばかり使って」とか「お菓子ばかり食べて、あんなに太っている」といったふうに内心悪く思われているのではないかと気にし出したのかもしれない、って。


 だけど男性患者さんからすると、自分がそこで、そんなことを気にし出したりするはずはなかった。いや、いっそ、男性患者さんのその見立てを、すこし語弊があるかもしれませんけど、こう言い換えてしまいましょうか。男性患者さんにはそのとき自信があったんだ、って。自分が周りのひとたちにも内心悪く思われているのではないかと気にしているはずはない、という自信が、って。


 家族からの電話をきっかけに、男性患者さんは、周りのひとたちにも内心悪く思われているのではないかと気にするようになった。ところが、男性患者さんには、自分がそんなことを気にしているはずはないという自信があった。で、男性患者さんはその自信に合うよう現実をこう解した


「小遣いばかり使って」とか「お菓子ばかり食べて、あんなに太っている」とボクを批判する声が聞こえてくる、って。


 以上が、俺の思い描いたこの男性患者さん像ですよ。





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2021年8月3,11,12日に文章を一部修正しました。


こういう記事に出くわしました。ご紹介がてらに。


*前回の短編(短編NO.7)はこちら。


*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

統合失調症の「悪口が聞こえてくる(幻聴)」を理解する(1/5)【統合失調症理解#1】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.8


 この世に異常なひとなどただのひとりも存在し得ないということを、以前、論理的に証明しましたよね。

 

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ちなみにこの記事で、です。

(注)もっと簡単に確認する回はこちら。

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 そしてそれは、この世に「理解不可能なひとなどただのひとりも存在し得ないということを意味するとのことでしたね。

 

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そのことを確認したときの記事はコレです。

(注)もっと簡単に確認する回はこちら。

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 だけど、医学は一部のひとたちのことを異常と判定し、「理解不可能」と決めつけてきました。


 たとえば、あるひとたちのことを統合失調症と診断し、つぎのように、やれ「永久に解くことのできぬ謎」だ、「了解不能」だと言ってきました。

かつてクルト・コレは、精神分裂病〔引用者注:当時、統合失調症はそう呼ばれていました〕を「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎であるような気がする。(略)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、1973年、p.182、ゴシック化は引用者による)

異常の構造 (講談社現代新書)

異常の構造 (講談社現代新書)

 

 

 専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能であることがこの病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司統合失調症PHP新書、2010年、p.30、ただしゴシック化は引用者による)。

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

 


 今回は統合失調症と診断され、このように「理解不可能」と決めつけられてきたひとたちのなかから実際にひとり登場してもらいそのひとがほんとうは理解可能であることを実地に確認してみることにしますよ。





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年頭のご挨拶が大変遅くなりました。明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします!


2020年2月20日と2021年8月3日に文章を一部加筆修正しました。


*前回の短編(短編NO.7)はこちら。


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医学を勉強するほど、人間理解力は低下する(4/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.7


◆結論(医学を勉強するほど人間理解力は低下する)

 ひとはみな、正常で、「理解可能」です。にもかかわらず、医学は一部のひとたちを不当にも異常と決めつけ、「理解不可能」であるということにして差別してきました。今回は、その差別の場面すべてを、つぎのふたつの場合に分けて考察しました。

  1. そのひとが当初、「理解できない」場合
  2. そのひとが最初から「理解できる」場合


 1の場合、ひとをそのように不当にも「理解不可能」と決めつけるというのは、そのひとのことを理解しようとするのを放棄することであるとのことでしたね。そんなことをしていると人間を理解する力はいっこうに伸びていかなくなる、ということでしたね。


 いっぽう2の場合、ひとを不当にも「理解不可能」と決めつけるというのは、理解できているそのひとのことをわざわざ理解不可能であることにするということであるとのことでしたね。そんなことをしているといまもっている人間理解力を減らしてしまうことになるとのことでしたね。


 以上、今回は、(精神)医学を勉強するほど人間理解力が低下する、ということを確認しました。





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みなさん、本年もお付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。次回は2020年2月3日21:00頃にお目にかかるつもりにしています。来年は、統合失調症の「症例」と言われるものを計20ちかく、見ていく予定にしていますよ。来年もまたお付き合いくださると幸いです。嗚呼、押し迫ってきましたね。では、みなさん、良いお年をお迎えください


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.6)はこちら。


*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

医学を勉強するほど、人間理解力は低下する(3/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.7


◆ひとが最初から「理解できる」場合(例、PTSD

 あるひとがいて、そのひとのことがすぐに理解できたと今度は想像してみてくれますか。その場合、ほんとうは正常で、「理解可能」であるそのひとを不当にも異常で、「理解不可能」であるということにして差別するというのは、すぐに「理解可能できるそのひとのことをわざわざ理解不可能であることにするということですよね。つまり、いまもっている人間理解力を減らしてしまうということですね?


 そのわかりやすい例として、ひとをPTSD(外傷後ストレス障害)と診断する場合が挙げられるように思いますが、みなさんの意見はどうですか?


 誰だってよく知っているように、過去の体験を引きずって苦しむことがひとにはよくありますね。神経質な俺なんか、ひとと楽しく会話したあとですら、そのときのことを引きずって苦しんだりしますよ(あのときああ言ったのは失言だったのではないかと心配になったりして、ね?)。ひとが車にひかれそうになったのを目撃したあと、いつまで経っても胸の高鳴りが止まらないとか、自分が陰口をたたかれていると偶然知ったあと夜うまく眠れない日がつづくとか、悪口を言っているところを本人に見つかってしまったときのことを何年経ってもふと思い出し、脂汗まみれになるとか、大震災を経験して以来人生観がガラと変わったとか、宝くじが外れてヤル気が出ないとか、とかく人間は過去を引きずっていろいろと苦しみますよね。


 でもそれは、誰だってよく知っている当たりまえのことですね。大抵のひとはそうしたことを実際、経験しますよね。


 ひとが、戦場での体験を帰還後も引きずって苦しむとしても何ら不思議ではないし、事件のときの模様を不意にありありと思い出してつらい思いをするとしても何らおかしなことはないと、みなさん、思いますよね?


 だけど、そうした誰にでも「理解可能」で、共感できる人間のありようを、精神医学はいつからか、不当にもPTSDという異常であると決めつけ、わざわざ「理解不可能」であるということにしてきました。


 そのことに関して、たとえば、岩波明精神科医は著書『精神疾患』(角川ソフィア文庫、2018年)で、こういう興味深いことを言っていますよ。

 このような例とは別に、精神疾患を「病気としてとらえる場合注意すべき点がある。(略)


 戦闘やテロの現場に遭遇し、人間が殺害される場面を目撃すれば、それは重大なストレスになる。本人が事件の当事者であればもちろんのこと、通りすがりのものであったとしても、その衝撃は大きい。


 惨劇の場面を目撃した「正常」な反応においても、しばらくの間感情が麻痺した呆然として状態が続き、その後強い恐怖感が襲ってくることが普通にみられる。あるいは殺戮のシーンが繰り返し、頭に浮かんできて離れないかもしれない。被害者の断末魔の叫び声、銃弾の響き、あるいは血まみれになった遺体や引きちぎられた四肢のイメージから片時も逃れられないこともある。


 二〇〇八年に制作され、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたイスラエル映画戦場でワルツを」は、ベイルートで起きたパレスチナ難民虐殺事件に兵士として参加した主人公アリのその後を描いたものである。事件から二十年以上が経過し、アリはイスラエルで社会人として普通に生活していた。しかしアリは戦闘場面を繰り返し回想し、不安や恐怖感がそのたびに出現した。毎晩のように悪夢に悩まされたアリは、一方で事件の記憶の一部を忘却していた。


 このような状態は、今日では「PTSD(外傷後ストレス障害)」という精神疾患と診断される。しかしアリの反応は病的なものであろうかむしろ大量殺戮を目撃した当事者としては自然な反応である。強い感情的な反応を「病的」な疾患と決めつけてしまうことが適切かどうか、もう一度、検討する必要がある(同書pp.12-14、ゴシック化は引用者による)。

精神疾患 (角川ソフィア文庫)

精神疾患 (角川ソフィア文庫)

 


 映画を見ていた岩波精神科医には、アリさんの反応が「理解できた」のでしょうね。よって岩波精神科医は、アリさんのその反応を、PTSDという異常と判定し、「理解不可能」であるということにする(精神)医学の診断に、疑問を覚えることになったということでしょうね。


「あのひとは、過去にひどい体験をして、いまも苦しんでいる」とでも言えば十分、誰にでも「理解可能」であるこうした、アリさんが示すような反応を、(精神)医学は不当にも、PTSDという異常であると決めつけ、わざわざ「理解不可能」であるということにします。で、言うわけです。


「世間にはPTSDについて十分な理解が広まっていない」


「誤解がまだまだ根強い」


「精神医学による啓蒙が欠かせない」


 そして世間に、そのひとたちのことを「理解不可能」と思わせる、誤ったイメージを流布するわけです。たとえば、壊れた機械に喩えるイメージのようなものを。


 今回、見てきたことを最後にまとめますね。





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*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.6)はこちら。


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医学を勉強するほど、人間理解力は低下する(2/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.7


◆ひとが当初、「理解できない」場合(例、統合失調症

 あるひとがいて、そのひとのことが当初、理解できないとまず仮定してみてくれますか。でも、この世に「理解不可能」なひとなどただのひとりも存在し得ないということでしたよね。だとすると、当初は理解できないそのひとのことも理解しようと努めればいつか理解できるようになるということになりますね?


 したがって、1の場合は、こう言えます。


 そのひとのことを不当にも異常と決めつけ、「理解不可能」であることにするというのは、そのひとのことを理解するのを放棄するということである、って。そんなことをしていると、人間を理解する力はいっこうに伸びていかなくなる、って。


 さて、(精神)医学がそのように「理解するのを放棄する」ひとたちの代表例として、統合失調症と診断されるひとたちを挙げることができるのではないかと俺、思います。

 まだ駆け出しだった頃、先輩医師の診察につき添って訓練していたあるとき、保護室に長い間閉じ込められている若い女性の患者の診察に立ち会うことがあった。(略)彼女の状態は、悲惨なまでに纏まりを失っていた。限界量一杯まで安定剤を投与されていたにもかかわらず、言葉も支離滅裂に近く、幻聴も常に聞こえているという状態で、彼女が喋ると、二人が一度に喋っているようだった。医師との会話も、まったくトンチンカンなものにならざるを得なかった。


 だが、私はそばで話を聞いているうちに、支離滅裂にしか聞こえない話ではあるが、彼女が心の中で何を思い何を言いたいのか何となくわかってきたのだ。しかしそれが医師にも看護師にも伝わらずに、彼女はもどかしげであった。(略)


 専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ了解不能で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能であることがこの病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司統合失調症PHP新書、2010年、pp.29-30)。

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

 


 みなさん、どうですか。(精神)医学がこのように、そのひとたちのことを理解するのを放棄してしまえば、世間も、そのひとたちのことを理解しようとするのは無駄なことだと誤解してしまうのではないかと思いません? そうして世間のひとたちの人間理解力が成長するのを阻害することになるのではないかと思いません?


 つぎは、2の場合を見てみますよ。





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*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

医学を勉強するほど、人間理解力は低下する(1/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.7

目次
・2点復習
・ひとが当初、「理解できない」場合(例、統合失調症
・ひとが最初から「理解できる」場合(例、PTSD
・結論(医学を勉強するほど人間理解力は低下する)


◆2点復習

 今回は、(精神)医学を勉強するほど人間理解力が低下するということを確認しますね。


 最初につぎの二点を再確認してから本題に入ることにしましょうか。

  • ひとはみな「理解可能」である。
  • (精神)医学は一部のひとたちを「理解不可能」と決めつけて差別してきた。


 では、はじめますね。


 ずいぶんまえに、健康、病気とはそれぞれ何であるか確認したの、ひょっとして覚えてくれていますか。こういうことでしたよね。ふだんのみなさんにとって、「健康」という言葉は、「苦しまないで居られている」ことを表現するためものである。かたや「病気」という言葉は、「苦しんでいる」ことを、その苦しみが手に負えないようなときに表現するためのものである、って?


 つまり、みなさんがふだん、「健康」であるとか「病気」であるとかとしきりに言うことで争点にするのは、苦しまないで居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)、である、って。


 でも、医学は健康を正常であること病気を異常であることと定義づけてやってきましたね? そうして、ひとを正常なものと異常なものとに二分してきましたね?

 

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上記のことを確認したのはつぎの記事ででした。

(注)後日そのことを、下の記事でもっと簡単に確認します。

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 ひとをそのように、正常なものと異常なものとに二分するというのは  これも先日確認しましたように  ひとを理解可能なものと理解不可能」(専門用語で言えば、了解不能なものとに分けるということを意味します。

  • A.ひとを正常と判定するというのは、そのひとを「理解可能」と認定するということ。
  • B.ひとを異常と判定するというのは、そのひとを「理解不可能」と認定するということ。

 

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先日この記事で確認しましたね。

(注)後日そのことを、下の記事でもっと簡単に確認します。

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 けど、異常で、「理解不可能」なひとなど果して、この世に存在するでしょうか。


 ちょっと思い出してみてくださいよ。異常なひとなどこの世にただのひとりも存在し得ないんだって以前、確認しましたよね? 言うなれば、ひとはみな正常なんだ、って?

 

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この記事で確認しましたよ。

(注)そのことも、後日、下の記事でもっと簡単に確認します。

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 この世に、異常で、「理解不可能」なひとなどただのひとりも存在し得ませんね? 言うなれば、ひとはみな正常で、「理解可能ですね?


 なのに(精神)医学は一部のひとたちを不当にも、異常で、「理解不可能であるということにして差別してきたわけです。


 さあ、いま、冒頭で挙げましたつぎの二点を再確認し終わりましたよ。

  • ひとはみな「理解可能」である。
  • (精神)医学は一部のひとたちを「理解不可能」と決めつけて差別してきた。


 ここから本題に入りますね。(精神)医学を勉強するほど人間理解力が低下するということをいまから確認していきますよ。


(精神)医学は一部のひとたちを不当にも、「理解不可能」であるということにして差別します。その差別はつぎのふたつの場合に分けることができます

  1. そのひとが当初、「理解できない」場合
  2. そのひとが最初から「理解できる」場合


 このふたつの場合を順にそれぞれ見ていきますね。





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