(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医学の言うことがみんな嘘になる理由、出来事編(2/3)

*医学の言うことはみんな嘘第3回


 実に医学は、身体に起こる出来事を、遺伝子とか、脳とか、ウィルスとか、細菌とか、ガンとか、アミロイドβとか、アレルゲンとか、はみ出した神経とか、とかく一点のせいにしてきました、ね?


 ガン治療なんてその最たるものじゃないですか。身体のなかにガンが見つかったら、すべてをガン一点のせいにする。そして、ガンという一点をとり除きさえすればイイとする、ね(いまはだいぶ事情が変わってきているとは思いますが)?


(ここに出て来るがん検診推進派?の市川平三郎氏の言説はそんな感じでしたよ)

「がんと闘うな」論争集―患者・医者関係を見直すために (メディカルトリビューンブックス)

「がんと闘うな」論争集―患者・医者関係を見直すために (メディカルトリビューンブックス)

 


 視力が落ちてきたと訴えるひとを検査すると脳に出来物が見つかった。そこで視力低下をその出来物一点のせいにし、それをとり除きさえすればイイとするとか、ね? とり除いた結果、酷く、体力、気力、記憶力、等が衰えたりしても、たいしたことではないと軽視して、ね? 悪の根源である出来物をとり除いたのだから、そうした衰えもきっとそのうち消えるはずだと勝手に決めつけたりして、ね?


 最近の流行で言うと、認知症なるものを、脳のなかのアミロイドβという一点のせいにし、そのアミロイドβをとり除きさえすればイイとする、というのもあります、ね?


 でも、身体に起こる出来事であれ、ビーカーのなかや、テーブル上、もしくは道端で起こる出来事であれ、何であれ、出来事はどんなものでも一点のせいにすることはできないじゃないですか。現に、科学の屋台骨をずっと支えてきた物理学や化学はかつて一度たりとも、出来事を一点のせいにできると示唆したことはありません、ね? むしろ、出来事は一点のせいにできるほど単純なものではないと人類(!!)に教えてきたくらいじゃないですか、ね?


 端的に言って、医学のように、身体に起こる出来事を一点のせいにするのは誤りです、ね?


 出来事を一点のせいにするというのはただの排外主義の論理、にすぎません、ね? 誰かが罪を犯すと、そのことを、そのひとの「何々人であること」一点のせいにし、その「何々人」を社会から排除しさえすればイイとするような見方にすぎません、ね?


1/3に戻る←) (2/3) (→3/3へ進む

 

 

前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全5回)の記事一覧はこちら。

 

医学の言うことがみんな嘘になる理由、出来事編(1/3)

*医学の言うことはみんな嘘第3回


 医学の言うことはみんな嘘なんじゃないかと俺、最初に、泣く泣く言いましたね? で、医学の言うことがみんな嘘になる理由として、ぱっとつぎの3つを挙げましたね?

  1. 医学は健康と病気の定義(治るの定義)に失敗している。
  2. 医学は身体を機械と見誤っている。
  3. 医学は誤って、身体に起こる出来事を一点のせいにしている。


 以前確認したこの3番について復習するキッカケを作るために、俺いきなりそんなことを口走ったわけですけど、その復習にとりかかるまえに、まず番号1と2をここまで軽く見させてきてもらいました。


 さあ、いよいよ、いまから本題に入りますよ。


 この番号3については、『医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん』という、失礼極まりないタイトルの文章で先日確認したとのことでしたね? その復習をかねていまから見ていきますよ。先日のその文章では「ものを捉える」とはどうすることなのか考えるところからはじめました。ここでもそれに倣いますね。


(その失礼極まりないタイトルの記事一覧はこちら)


「ものを捉える」とはどうすることか。


 その「もの」が何であれ、「ものを捉える」とは、状況を捉えるということです(ただし、その「もの」を状況の一部分と見ること。以下同様)。俺の目のまえにあるあんパンであれ、遠くにある大木であれ、俺の左手であれ、みなさんであれ、みなさんの脳や目玉であれ、壁紙のシミであれ、音であれ、レモンの香りであれ、コーヒーの味であれ、俺の過去体験記憶像(俺が記憶している過去の体験のこと)であれ、みなさんの未来体験予想像(みなさんが予想している未来体験のこと)であれ、何であれ、「それを捉える」というのは「状況を捉えるということです。


 なぜそう言えるのかについては確認を後回しにさせてくださいね。いまは先を急ぎます。


(確認は当シリーズ第4回に回しますね)


 いま言いましたように、「ものを捉える」とは「状況を捉える」ということです。ひと(の身体)を捉える場合だっておなじです。ひとを捉えるというのもまた、「状況を捉える」ということです。そのことをもっと正確な表現で言えば、たとえばこうなります。


 ひとを捉えるとは、「そのひとが渦中にいる状況を捉える」ということである(ただし、そのひとの身体を状況の一部分と見ること。以下同様)、って。


 いま、「そのひとが渦中にいる状況を捉える」といった言い方をしましたね。これを、ふだんみなさんがよく使う簡単な言葉で言い直せば、こうなりません?


 そのひとの身になる、に。


 つまり、ひとを捉えるとは「そのひとの身になる」こと、とも表現できません?


 けど医学はひとの身になろうとしません。「そのひとが渦中にいる状況を捉え」ようとはしません。そのことを先日、例の失礼極まりないタイトルの文章で、確認しましたよね? 統合失調症と診断されたひとりの男性を例に、ね?


(その回はこちら)


 では、「ひとの身になる」代わりに医学がしてきたのは何だったのか。


 それは、ひとの身体に起こる出来事を一点のせいにすることでした。


 医学が「原因」という名でよんできたのはその一点のことでしたよ、ね?


         (1/3) (→2/3へ進む

 

 

前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全5回)の記事一覧はこちら。

 

医学の言うことがみんな嘘になる理由、身体編(2/2)

*医学の言うことはみんな嘘第2回


 だって、いいですか、いま俺の目のまえに、俺の左手がありますよね? その皮膚に血管が浮いているのが見えますね? 深爪した指先や、骨張った関節、蚊に噛まれて赤くなった跡も、ね? えっ、毛はあまり生えていませんけど……


 でも、俺の目のまえのソコにあるのはそうした、皮膚や皮下脂肪や筋肉や血管や骨や爪や毛といった(ブツ)だけですかね?


 そうした「物」があるのとおなじ場所を、「物」とはまた別のものも占めてません?


 感覚(これをみなさんは左手の感覚と言いますね)もまたおなじ場所を占めていませんか?


 おなじ場所を占めているそれら「」と「感覚とを合わせて、みなさんはふだん左手とよぶんじゃありませんかね?


 いま左手について言ったことは全身に言えますよ。


 頭の頂から下半身の末端まで、「物」と「感覚」とが(ほぼ)おなじ場所を占めながらひと連なりになっているじゃないですか。おなじ場所を占めているそれらふたつを合わせて、みなさんはふだん身体(からだ)とよぶんじゃありませんか?


 ほら身体は機械じゃありませんね? 機械には認められない「感覚」なんてものが身体にはあります、ね?


 けど医学は身体を機械として説明します。つまり、身体に起こる出来事を説明するのに、細胞とか神経とか遺伝子とか臓器とか酵素とかといった「物」しか挙げてきません。そうした複数の物質たちを構成要素とする運動としてしか、身体に起こる出来事を説明しません。構成要素のひとつとして、それら「物」とおなじ場所を占めている「感覚」を挙げようなどとは決してしません。


 ボールを投げるとか歩くとかといった出来事ですら、医学は「感覚」ぬきで説明します。脳からの電気指令が神経を伝って筋肉に行き、その筋肉を動かすんだっていうふうに、ね?


 そんな具合に、機械じゃない身体を機械として説明すれば、話が全部嘘になるのは当たりまえだと、みなさん思いません(その嘘が支障のないものか、それとも致命的なものなのかはさて置いて)? ちょっと考えてみてくださいよ。出来事を、その出来事の構成要素をひとつ抜いて説明することは可能ですかね? たとえば、全身への血液循環を、心臓という構成要素を入れずに説明することはできますか? できませんよね? なら、身体に起こる出来事を、その出来事の構成要素のひとつである「感覚」抜きに説明することもまたできないということになりませんか。


 俺はなると思うけどなあ。


 本題(先の番号3の復習)に入るまえに、番号1(医学は健康と病気の定義に失敗している)と番号2(医学は身体を機械と見誤っている)について以上、簡単に確認しました。医学の言うことはみんな嘘だと俺が最初に言ったとき、みなさん、俺のことをトンデモと思ったでしょ? 図星ですかね? けど、こうしてちょっと考えてみるだけで、俺がそんなにおかしな事を言っているわけではないということが、にわかにハッキリしてきました、ね?


 じゃあ、遅ればせながら本題に入りましょう。先の番号3(医学は誤って、身体に起こる出来事を一点のせいにしている)を、大雑把にですけど、これから復習していきますね。


1/2に戻る←) (2/2) (→次回はこちら

 

 

2019年11月7、8日に文章を一部修正しました。


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズの記事(全5回)一覧はこちら。

 

医学の言うことがみんな嘘になる理由、身体編(1/2)

*医学の言うことはみんな嘘第2回


 医学の言うことはみんな嘘なんじゃないかと俺、言いましたね? 


 で、みんな嘘になる理由としてぱっとつぎの3つの理由を挙げたじゃないですか。

  1. 医学は健康と病気の定義(治るの定義)に失敗している。
  2. 医学は身体を機械と見誤っている。
  3. 医学は誤って、身体に起こる出来事を一点のせいにしている。


 以前見たその3番の復習がしたくて、俺いきなりそんなことを言ったわけでしたね。


 その復習をかね、先の1から3を順に確認しようとしているところです。


 ちょうどいま、番号1を見終わりましたね。


 では、引きつづき、番号2(医学は身体を機械と見誤る)をサラッと見ていきますよ。


 これについてもつい先日、確認したじゃないですか。たしか『「科学」を定義する』というタイトルの文章で、ね? そこで、ほんとうは機械ではない身体を医学が機械と見るに至る経緯を見ましたよ、ね?


(このシリーズの第5回目ですよ)


 医学は身体を機械として説明しますよね? ほら、最近ではもう、自分がどこにいるのかわからなくなるひとたち(特に年配者)のことを認知症と診断し、こんな具合に車か戦闘機みたいに説明するまでになっているじゃないですか。


 脳のなかのGPS機能が故障しているんだ、って。


(参考記事①:「脳のナビゲーションシステム」という表現が出てきますね)

(参考記事②:GPSと言っていますね)


 けど、機械ではない身体をそんなふうに機械として説明すると、話は全部嘘になってしまうんじゃないのかなあ。


         (1/2) (→2/2へ進む

 

 

2019年11月7、8、9日に文章を一部加筆修正しました。


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズの記事(全5回)一覧はこちら。

 

医学の言うことがみんな嘘になる理由、「健康・病気・治る」編(2/2)

*医学の言うことはみんな嘘第1回


 びっくりしました? ちょっと確認してみましょうか。


 みなさんにとって、治るとは、苦しまないで居てられるようになること、ですよね。仮にですけど、みなさんが病院に行って視野狭窄を訴えたとしましょうよ。で、勧められた手術を受けた。すると、たしかに視野狭窄は解消したが、以後、頭痛に悩まされることになったとしたら、どうですか。


 視野狭窄が「治った」という言いかたは、抵抗があってなかなかできない、ということになりませんか。


 視野狭窄で苦しむことは無くなったけれど、頭痛という別の「苦しみ」をあらたにこうむることになったとなると、手術によって「苦しさ」を別のものにとり替えた、みたいなことになりますね? で、もし、その頭痛の「苦しさ」のほうが、視野狭窄の「苦しさ」より酷かったら、どうなります(「酷い」という判定は、苦しさの強さ、苦しむ期間と頻度等を総合判断してのものと考えてくださいね)? 手術によって「苦しさ」をより酷いものと交換したということになりません? ますます、 視野狭窄が「治った」という言いかたはしづらくなりませんか。


 視野狭窄が「治った」と違和感なく言えるのはやっぱり、「苦しまないで居てられるようになった」とき、ではありませんか。


 いま、みなさんは、治る、を「苦しまないで居てられるようになること」ととると言いましたね。さあ、では、そんなみなさんがふだん、健康であるとか病気であるとかとしきりに言うことで争点にするのは、いったい何でしょう? みなさん、何だと思います?


 苦しまないで居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)、ではありませんか。


 ところが、医学は健康や病気をそんなふうにはとってきませんでした。医学が、やれ健康だ、やれ病気だ、とさかんに言って争点にしてきたのは、正常であるか、異常であるか、でした。医学は健康を正常であること病気を異常であることと定義づけてやってきましたよね。そんな医学にとって、あくまでも、治るとは、正常になること、でしたね。

正常と病理〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

正常と病理〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

 


 みなさんは病院の診察室で、目が見えにくいとか、息がしにくいとか、気分が鬱々とするとかと言って、「苦しさを訴えるじゃないですか。で、そのとき、目が見えるようになりたいとか、息がしやすくなりたいとか、気分が晴れるようになってほしいとかと言って、「苦しまないで居てられるようになることを要望するじゃないですか。でも、健康を正常であること、病気を異常であることと勝手に定義づけてきた医学は、そうしたみなさんの「訴え」や「要望」を素直には受けとってこなかったわけです。


 医学はそうしたみなさんの「訴え」を、視野、呼吸、精神それぞれの「異常を訴えるものとねじ曲げてとってきました。またみなさんの「要望」については、視野、呼吸、精神それぞれが「正常になるのを要望するものとひとり決めしてきました。


 みなさん不安に思いません? そんなふうに健康や病気を勝手に定義づけ、みなさんの切実な「訴え」と「要望」を歪めて解釈するもの(医学のことですよ)の言っていることは、おのずとみんな嘘になってしまうのではないか、って。


 健康とは何か、病気とは何かといった根本的なところをとり違えているものが、果してどれだけまともなことを言えるのだろう、って?


 さて、先に挙げた番号1(医学は健康と病気の定義に失敗している)についていま簡単に見終わりましたよ。この件については、さっきも言いましたように、次作である短編集でねちっこく見ていくつもりにしています。統合失調症と診断されたひとたちの症例と呼ばれるものをできるだけ挙げて、ね?


(短編集「統合失調症と精神医学と差別」予告編)



1/2に戻る←) (2/2) (→次回はこちら

 

 

2019年11月7、9日、および2020年4月4日に、一部文章の修正と加筆を行いました。


このシリーズ(全5回)の記事一覧はこちら。

 

医学の言うことがみんな嘘になる理由、「健康・病気・治る」編(1/2)

*医学の言うことはみんな嘘第1回


 医学の言うことはみんな嘘なんじゃないですか、ね?


 もちろん、その嘘がすべて致命的なものだと言うつもりはありませんよ。なかには支障のない嘘だってたくさんあるにちがいありませんね? ひょっとすると、有益な嘘もあるかもしれませんし、ね(そんなのあるのかな)?


 でも、「医学の言うことがみんな嘘」というのはほぼ間違いのないところではありませんか(みんな嘘と認識するところから出発しないといけないのではないかと、俺、思うわけです)。


 いや、何も小難しいことを言おうとしているのではありませんよ。これはごくごく単純な話です。


 ためしに、みんな嘘と断言する理由を簡単に3つほどあげてみましょうか。

  1. 医学は健康と病気の定義(治るの定義)に失敗している。
  2. 医学は身体を機械と見誤っている。
  3. 医学は誤って、身体に起こる出来事を一点のせいにしている。


 実は今回、この3番について復習しようと思い、こんなことを言っています。先日、『医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん』というタイトルの文章で詳しく見ましたよね。医学が誤って、身体に起こる出来事を一点のせいにするというのを。


 このシリーズでは、その復習をかね、いま挙げました1から3を順にざっと見ていきます。


 今回は1を見ますよ。


 けど、1については、ちょうどいま書いているこの文章(「医学の言うことはみんな嘘」)のつぎのシリーズに当たる、短編集「統合失調症と精神医学と差別」で詳しく見るつもりにしています。いまはつぎのことだけ言っておきますね。


(短篇集「統合失調症と精神医学と差別」予告編)


 みなさんと医学とでは健康病気治るの意味がそれぞれ異なる、って。

         (1/2) (→2/2へ進む

 

 

2019年11月7、9日に文章を一部加筆修正しました。


このシリーズ(全5回)の記事一覧はこちら。

 

「科学」には身体が機械にしか見えない(5/5)

*「科学」を定義する第5回


◆「身体のすり替え」(結論)

 さて、いま、科学がみなさんの左手をどう解するか、見ましたよね。簡単に言うとこういうことでしたね。

  • .科学は左手を、元素のよせ集まったにすぎないもの(「左手機械」)であることにする。
  • .科学は「左手の感覚」を、みなさんの心のなかにある、「左手機械についての情報」であることにする。


 こうした見方を科学は左手に限定せず、身体全体にするわけですよ。いま挙げたAとBの「左手」とあるところを全部、「身体」に置き換えてみてくださいよ。


 まずAからいきますね。科学は、左手のみならず、身体全体を、元素のよせ集まったにすぎないものであることにします。元素のよせ集まったにすぎないものと想定されたその身体を以後、身体機械と呼ぶことにしますね。科学でしばしばもちられる呼び名ですしね。


 つぎにBを見ますね。科学は、「左手の感覚」のみならず、「身体の感覚」全体を、みなさんの心のなかにある、「身体機械についての情報」であることにします。


 まとめると、こうですよ。

  • α身体を、元素のよせ集まったにすぎないもの(「身体機械」)であることにする。
  • β.「身体の感覚」を、みなさんの心のなかにある、「身体機械についての情報」であることにする。


 以上、科学が身体を実際とは別のものにすり替える次第を見てきました。みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことですけど、「存在のすり替え」と「関係のすり替え」をする科学の手にかかると、身体は機械で、「身体の感覚」は、心のなかにある、「身体機械についての情報」であることになるとのことですよね。


 さあ、このように身体を機械と見なすことによって、科学は、みなさんにとって非常に大事なあるものに着目できなくなりました


 その着目できなくなった非常に大事なものとは何だと、みなさん、思います?


 快さ・苦しさ、ですよ。


 機械は快さや苦しさを感じたりしませんね。したがって、身体を機械と見なすと、つぎのどちらかになります。

  • 快さや苦しさを、見落とすことになる。
  • 機械に認められる何かとして説明しようとし、訳がわからなくなる(快さ・苦しさにどう着目していいか、わからなくなる)。


(そのことはこの全3回のシリーズで確認しました)


 でも、みなさんにとって、快さ・苦しさは非常に大事ですよね。みなさんそれを四六時中気にしているし、他人にもみなさんの快さ・苦しさに配慮してほしいと望みますよね。


 特に医療には、ね?


 今回確認したことを振り返りましょう


 最初に、俺、科学をこう定義づけてはどうかと提案しましたね。みなさんがあんパンを見ているとして、そのあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。


 科学はそうしてあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしたのをキッカケに、「存在」「関係」「身体」、健康・病気、医学の使命といったありとあらゆるものを、実際とは別のものにすり替えていきます。前々回から今回にかけて、そのなかから、「存在のすり替え」「関係のすり替え」「身体ののすり替え」の3つを見てきました。その「身体のすり替え」の結果、科学には、快さ・苦しさといった、みなさんにとって非常に大事なものにまともに着目することができなくなるということを、いまさっき確認して終わったところですよね。


 そのように快さ・苦しさにまともに着目することができなくなった科学は、健康・病気、医学の使命をそれぞれ、実際とは別のものにすり替えていくわけですが、その詳細を次々作(短編集「統合失調症と精神医学と差別」)で見るつもりにしています。


(短編集「統合失調症と精神医学と差別」の予告編)



4/5に戻る←) (完)         

 

 

今回の最初の記事(1/5)はこちら。


前回(第4回)の記事はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回


第2回


第3回


このシリーズ(全5回)の記事一覧はこちら。