(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

歩みよるにつれ、大木が刻一刻と姿を大きく、かつ、くっきりさせていくことは何を意味するか、確認する〈2/3〉

*医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん第2回


 えっと、それで大木の話のつづきですけど、いまみなさんと俺、歩いているじゃないですか。たとえばもしこのとき俺の目のまえにさっと誰か背の高いひとが入ってきたらどうなると思います? 大木は、そのひとに遮られて俺には見えなくなりますね? つまり大木は、そのひとの身体ごしに、姿まるまる全部を「見えないありよう」にしますよね? ほら他人の身体がどこにどのようにあるかによっても大木の姿は変わるじゃないですか


 大木は、「他人の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも逐一答えるって付け加えたほうがよくないですか、ね?


 話のもっていき方、強引? う〜ん、頭が痛いなあ。


 でも、頭痛は横に置いておきましょうよ。で、大木についてこれまで確認してきたことは何を意味しているのか今度は考えてみましょうよ


 みなさん、何を意味していると思います?


 俺はこう思います。大木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものなんだってことを意味しているんじゃないのかな、って。この「他のもののうちには、確認してきましたように、太陽や雲や風やといった物のほか、俺の身体や他人の身体、さらには空いた場所や、音、匂い、味などが入りますよ。


 いや、それだけじゃないな、そこには俺が記憶している過去体験予想している未来体験も含まれるんじゃないかな


◆「他のもの」のなかに入る過去体験記憶像・未来体験記憶像

 考えてもみてくださいよ。


 いま大木に向かって歩いていますよね? どの瞬間でもつぎのふたつのことを同時にしているじゃないですか

  1. これまで大木に向けてどのように歩いてきたか、過去体験を記憶している。
  2. これから大木に向けてどのように歩みよっていくか、未来体験を予想している。


 たとえば、大木に向けて歩き出すまえに遙か前方を見やったときのありさま、俺ずっと忘れず歩いていますし、大木の真下に着いたあと頭上に目の当たりにすることになるだろう景色をずっと予想しながら歩いてもいますよ。


 以後、俺が記憶している過去体験のことを過去体験記憶像、俺が予想している未来体験のことを未来体験予想像とよぶことにしますね。


 大木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものなんだってさっき言いました。その「他のもののなかには、太陽や雲や風やといった物のほか、俺の身体や他人の身体、さらには空いた場所や、音、匂い、味などに加えて、こうした俺の過去体験記憶像や未来体験予想像も含まれるんじゃないですかね


 ちょっと確認してみますね(以下しばらくのあいだ話がややこしいかと思います次頁の最後まで読み飛ばしてもらっても全然問題ありませんよ)。


 俺、さっきから大木に歩みよっているじゃないですか。終始俺、大木の姿を目の当たりにしていますよね。大木は姿を刻一刻と大きく、かつ、くっきりさせていっていますね。でも、みなさんと最初に約束を交わしたという記憶がなかったら大木の姿はそんなふうに刻一刻と大きくかつくっきりしていなかったんじゃないのかなあ。みなさんと最初に約束したじゃないですか、状況・最小単位説っていうのが何なのか一緒に見ましょうって。俺がそんな約束をした過去体験を記憶していなければ、いまごろ俺の目のまえでは、ブラウン管の向こうでグラウンドを駆け回るベイスボール・プレイヤーの姿が大きくなったり、小さくなったりしていたんじゃないのかなあ。みなさんとそうした約束を交わした過去体験を記憶していればこそ、いま俺の目のまえで、大木の姿は刻一刻と大きく、かつ、くっきりし得ているんじゃないのかなあと俺、思いますけど。


 大木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答える。その「他のもののなかには俺の過去体験記憶像も含まれるってことでいいですかね?


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歩みよるにつれ、大木が刻一刻と姿を大きく、かつ、くっきりさせていくことは何を意味するか、確認する〈1/3〉

*医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん第2回

目次
・大木は俺の身体に気を配る
・大木は「他のもの」に気を配る
・「他のもの」のなかに入る過去体験記憶像・未来体験記憶像


◆大木は俺の身体に気を配る

 いま大木に歩みよっているじゃないですか。大木は、俺のほうを向いた面の、上ッ面のみ「見えるありよう」を、それ以外の部分はすべて「見えないありよう」をそれぞれとった姿をしているってことでしたよね。


 俺が歩みよるにつれ大木はその姿を刻一刻と大きくかつくっきりさせていくってことでしたね。


 歩みよっている最中に俺が瞳を閉じると、さらに大木は姿全部を「見えないありよう」に変え、瞳を再度ぱっちり開ければ、俺のほうを向いた面の上ッ面だけ「見えるありよう」にまた変えるじゃないですか。俺が右っ側から周りこむように近寄っていくと、さっきまで「見えないありよう」を呈していた、大木の向かって右側面を徐々に「見えるありよう」に変えていくと同時に、それまで「見えるありよう」を呈していた面をだんだん左っ側に「見えないありよう」に変えて寄せていくじゃないですか、ね?


 まぶしさに弱い俺がサングラスをかければ、大木は姿を薄暗くしますし、俺がサングラスをとれば、再度その姿を明るくしますし、ね?


 俺の身体がどこにどのようにあるかによってこんなふうに大木は姿を変えます。大木のこうしたありようを、哲学も科学もその他ありとあらゆる学問も言葉にはしてきませんでしたけど、俺は積極果敢にこう表現しようと思います。


 大木は、「俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものなんだ、って。


 けど、こんな表現で通用しますかね? それとも箸にも棒にも引っかかりませんかね? 正直、俺にはうまく表現できている気があまりしないと言いますか、なんと言いますか......


 みなさんならどう表現します?


 あれ......カラスの鳴き声しか聞こえてこないな...... 


 じゃあ、俺のこの表現でいいですかね? 歩みよるにつれ大木が姿を刻一刻と大きくかつくっきりさせていくというのは大木が、「俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるかという問いに逐一答えるってことを意味するんだってので? もっと的確な表現がありましたら、適宜、みなさんのほうで差し替えておいてくださいね?


 でも、大木は俺の身体がどこにどのようにあるかによって姿を変えるだけじゃありませんね


◆大木は「他のもの」に気を配る

 今日、雨の予報出てましたっけ、急にあたりが暗くなりましたよ。あ、でもすぐにまた雲間から顔を出しましたね、太陽、ほら。


 大木は、太陽が雲間にかくれると薄暗い姿を呈し、太陽が再度雲間から顔を出すと、もとの明るい姿にもどったじゃないですか。太陽と雲がどこにどのようにあるかによっても大木の姿は変わりますね。大木は、「太陽や雲と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも逐一答えるって言い足したほうがいいんじゃないですかね?


 あ、ちょっと待って、そうだ俺、鍵どこにやったっけ? 急にすみません、突然心配になるタチで……ポッケのなかにないぞ、おかしいな、こっちのポッケにもないな、カバンのなかかな?


 ゴソゴソという音がします。


 だけどそれは、俺がカバンのなかをあさる音じゃありませんね。前方数百メートルのところにある大木の葉という葉が枝ごと風に揺れる音ですよね。いまカバンのなかを覗いている俺には、大木はまるまる全体が「見えないありよう」をとっていますけど、大木はその「見えないありよう」をした姿を、ゴソゴソという音に合わせて揺すっています。風や音がどのようにあるかによっても大木はこのように姿を変えますよね


 大木は、「風や音と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも逐一答えるってさらに付け足したら、みなさん、アメリカの人たちみたいに肩をすくめますかね?


 あ、鍵ありました。ちゃんとカバンのなかにありましたよ〜。焦ったぁ〜、いきなりすみません、急に変なこと気になっちゃって……


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医学だけが無視するこの世の根本原理について確認しはじめる(3/3)

*医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん第1回


◆身体とは

 でもそのまえに、そもそも身体とは何かってことですよ


 みなさん、何を身体と考えます?


 ふむふむ、そうですよね。


 いま俺の頭のてっぺんから足の先まで、俺の身体感覚がひと連なりになっていますよね。身体感覚があるそのおなじ場所には、ほら、もあるじゃないかっていまみなさんツブやきました。俺の髪の毛とか、骨とか、皮膚とか、目玉とか、歯とか、内臓とか、血液とか、血管とか、あげていけばキリが無いけど、そういった「身体感覚がひと連なりになって占めているそのおなじ場所を占めているじゃないか、って。何か不思議な気がするけど、「感覚」と「物」というふたつの別ものがおなじ場所を占めているのは抗えない事実なんだ、って。


 俺、この耳でかすかに聞きましたよ? 


 そんなふうにおなじ場所を占めている感覚とをひとつに合わせてみなさんふだん身体とよんでいるってことでイイです、ね?


 そして「感覚」のほうを、身体の感覚とか身体感覚と表現しているってことで? じゃあそれに合わせて「物」のほうは今後、身体の物もしくは身体物とよぶことにします? いや、さすがにその言い方は無いかあ(身体の物って言い方したいけどなあ〜)。なら、身体の物部分ってよぶことにしますか? 「感覚」のほうを身体の感覚部分とよぶことにして?


 身体というのはおなじ場所を占めている身体の感覚部分身体の物部分とを合わせたもののこと、といった表現の仕方でみなさん、ok?


 Uh-huh,じゃあ以後この表現でいきますね。


 さっきこう言いましたよ。大木は、俺のほうを向いた面の、上ッ面のみ「見えるありよう」を、それ以外の部分はすべて「見えないありよう」をそれぞれとった姿でいま(俺にたいし)存在しているが、それとおんなじことが俺の身体にも言えるんじゃないか、って。いま、俺の「身体の感覚部分」が頭のてっぺんからつま先までひと連なりになって占めているのとおんなじ場所を占めている「身体の物部分俺にたいし全部が見えないありようを呈していますよね。だって遙か前方にある大木を遠望しているいま、俺の視野のなかには、俺の身体、入ってないじゃないですか。もし俺が足もとにでも視線を落としていれば、俺の「身体の物部分」は、足もとの、俺のほうを向いた面の、その上ッ面のみ「見えるありよう」を、それ以外の部分はみな「見えないありよう」をそれぞれとった姿をしていたでしょうけど。


 ね、大木も俺の身体も姿は見えるありよう見えないありようからなりますでしょう


 なんの話をしているかわかりにくくなっちゃいましたか? 俺が歩みよるにつれ大木が姿を刻一刻と大きくかつくっきりさせていくというのはどういうことか考察している最中ですよ。なんぴとたりとも無視することのできない状況・最小単位説とは何なのか確認する第一関門を突破しようとしているところです。思い出しましたか。


 じゃあつづけますね。


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医学だけが無視するこの世の根本原理について確認しはじめる(2/3)

*医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん第1回


◆大木の姿をつぶさに観察する

 そうだなあみなさんのお家の庭をこうして一緒に歩きながらお話ししましょうか? いやあ、いい季候ですねえ、こんな庭がうちにもあればなあ。あ、あそこに、あの〜木ぃなんの木、気になる木ぃ〜があるじゃないですか。あの大木の下で芝生のうえに寝っ転がりながらノンビリお話ししません? 気持ち良さそうじゃないですか。


 えっ、言ってみるもんだなあ、じゃあさっそくお言葉に甘えて、あの大木目指しなだらかな斜面をのぼっていくとしましょうか、ね?


 歩みゆくにつれ大木は姿を刻一刻と大きくかつくっきりさせていきますね。大木の実寸が刻一刻と大きくなっていくと言っているんじゃありませんよ? もちろんです。大きくなっていくのはあくまで大木の、姿、ですよね。姿をそのように大きくすることで、大木は終始その実寸を一定に保つわけですよね。もし大木の姿がずっとおんなじ大きさだったら、俺はいま、大木の実寸が刻一刻と小さくなっているのを目の当たりにしていることになるじゃないですかあはは。


 でも、歩みよるにつれ大木が姿を刻一刻と大きくかつくっきりさせていくっていうこのことはいったい何を意味しているんでしょうね


 ここ4年ほど何度もくり返し発してきたこの問いにまず答えることから状況最小単位説に迫ってみるとしましょうか、ね?


 大木目指し、いまみなさんと一緒に歩いているじゃないですか。でも俺にはいま大木の全部が見えているわけじゃありませんね(みなさんにもそうですね)? 俺に見えているのはあくまで大木の、俺のほうを向いた面の、その上ッ面だけですよね。側面も、中身も、背面も、地面の下に伸びている部分も、まったく見えていませんよね。


 ああ大木は一見よく見えているようで、案外そのほとんどが見えていないなあ。


 じゃあ、いま、大木の、俺のほうを向いた面の、現に見えているその上ッ面しか、俺にたいして存在していないってことになりますかね? 見えていない、大木の中身や、側面や、背面や、土の下はこのとき、俺にたいして存在していないことになりますかね?


 いや、大木の中身も、側面も、背面も、土の下も、見えないありようとでも言うべき姿でいま俺のまえに存在していると言ったほうが現実に即しているんじゃないですかね? 大木は、俺のほうを向いた面の、上ッ面のみ見えるありようを、それ以外の部分はすべて「見えないありよう」をそれぞれとった姿でいま俺にたいし存在していると言った方が適切なんじゃないですかね、どうですかね、みなさん?


 さて、大木には見えるありよう見えないありようといったふたつのありようがあるって、いま言いました。けど、これって俺の身体にも言えません?


 確認してみましょうよ。


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医学だけが無視するこの世の根本原理について確認しはじめる(1/3)

*医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん第1回

目次
・医学だけが無視するこの世の根本原理
・大木の姿をつぶさに観察する
・身体とは


◆医学だけが無視するこの世の根本原理

なんぴとも無視することのできないこの世の根本原理は何か」と問われたら、俺なら、照れながらおずおずと、こう答えるでしょうね。「この世の最小単位は状況である」というのがその根本原理なんだ、って。すなわち、状況最小単位説こそ、そうした根本原理の名にふさわしいんだ、って。


 状況・最小単位説って名前は俺が勝手につけましたよ。いつものことです。


 えっ、この世の根本原理がドウのコウのなんてきょうび誰も言わない? そんなこと言う人間は中二病? ねえ、もうやめましょうよ、やれ中二病だなんだと言ってひとを嗤うのは。口先とんがらがして「中二病中二病だw」と誰かを嘲笑っているひとが、ひとまえではアゴを撫でまわしながら「みんな違って、みんなイイ」なんて、感に堪えないような声出すの、聞きたくないですよ、俺。


 なんの話してましたっけ? ああなんぴとも無視することのできないこの世の根本原理について話してましたね。状況・最小単位説こそ、この世の根本原理なんだって俺さっき小さな声で恥ずかしそうに言いました。これからちょっと汚名返上させてもらえません? だって、このままじゃあ、「状況・最小単位説ってナニ? アイツまた変なこと言ってる。笑」で終わりじゃないですか。いま何か変なことを言っているように聞こえるかもしれないけど、超大事なことに触れてるんだってわかってほしいな、と。


 ねえ、ちょっと聞いてみてくださいよ。


 手短にお話ししますし、お願いしますよ。


 俺が思うに、なんぴとも無視できないほど重要であるにもかかわらず、この状況最小単位説にもとづこうとしてこなかった学問がひとつあります


 医学ですよ


 おなじ科学でも、物理学や化学はこの原理にもとづこうと努力してきたのに、医学だけ無視を決め込んできました。その結果医学は現実にうまくついてこれませんでした。そのことを悟られないようこれまでただヘリクツで誤魔化してきただけで。えっ、また悪口かって? ちがいますよ。俺ほど科学を愛しているヤツはいないですよ。ほんとうに愛しているのでなければ、醜悪な面まで直視することはできないはずだし、いやまあそんなことはどうだっていいや、本題に入りますね。


 俺が状況最小単位説と名づけたなんぴとも無視することのできないこの世の根本原理をこれから見ていきます。で、最後に、物理学も化学もこの原理にもとづこうと汗水たらしてきたのに医学だけちっとももとづこうと努力してこなかったってことを簡単に確認して、今回は終わりとしましょうか、ね?


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科学は快さや苦しさをどういったものと誤解するのか、遠い目をしてふり返る(4/4)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回


 説2では、快さを、快さ(快情動)と快さの「感じ」のふたつに分け、また、苦しさのほうも、苦しさ(不快情動)と苦しさの「感じ」のふたつに分けたうえで、快さと苦しさ(快情動と不快情動)行動まえのウォーミングアップと定義づけます


 箇条書きにするとこうなります。


.行動を、脳によって「身体機械」に引き起こされる出来事であることにし、好物への接近行動と、敵からの逃避行動のふたつから成るとする(行動を二分する)。


.情動(快情動+不快情動)を、脳が「身体機械」にさせる、行動まえのウォーミングアップであることにする。

  • 快さ(快情動)、脳が「身体機械」にさせる、好物への接近行動まえのウォーミングアップであることにする。
  • 苦しさ(不快情動)、脳が「身体機械」にさせる、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップであることにする。


.「身体機械がしているウォーミングアップの様子を知らせる情報」が、電気信号のかたちで、「身体機械」各所から発したあと、神経をつたって脳まで行き、そこで、その「情報」が情報Aに当たるときは、快さの「感じ」というマークを脳につけられて分類されるいっぽう、その「情報」が情報Bに当たるときは、苦しさの「感じ」というマークを脳につけられて分類されるということにする。

  • 情報A:「身体機械がしている、好物への接近運動まえのウォーミングアップの様子を知らせる情報」
  • 情報B:「身体機械がしている、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップの様子を知らせる情報」


(この説2は、下記の本に載っているものです)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

 


 この説2、めちゃくちゃじゃないですか? 何ひとつとしてまともなところがないような気がしません?


 なかでも特に気にかかるのはこんな説をとったんじゃあ恐怖や驚きで身がすくむっていう誰でも知っている当たりまえのことすら捉えられなくなるってことですよ


 イカつい人間に絡まれて、恐怖で身がすくんだ覚え、みなさん、ありません? それとか、いきなりモノカゲから車、自転車、もしくはひとが飛び出てきたのにびっくりして身が固まったってこと、みなさん、ありませんかね?


 恐怖を感じたり、驚いたりすると、身が固まるじゃないですか。緊張しても、ね? けど、この説2を信奉すると、恐怖や驚きや緊張をまったく逆に解することになるじゃないですか、ね?


 この説2では苦しさ(不快情動)を、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップと定義づけるってことでしたよね(前記ⅱのふたつ目)? したがって、暴漢に襲われて恐怖を感じているというのは、この説2にしたがうと、暴漢という敵からの逃避行動まえのウォーミングアップを「身体機械」がしている状態ってことになります、ね? つまり、恐怖を感じていればいるほど、ウォーミングアップがしっかりとれているということになって、その後、暴漢という敵からの逃避行動をよりスムースにとれるってことになるじゃないですか、ね?


 よって、説2の信奉者は、レイプされたひとや、レイプされそうになったひとが、「怖くて逃げられなかった」と打ち明ける*1のを聞いて、こう考えることになるじゃないですか。


「恐怖を感じていたのなら、スムースに逃げられたはずだ。なのに、なぜ逃げなかった!」


 こんな説2なんか、とてもじゃないですけど、とれるわけありませんよ。


 さて、快さと苦しさについて先日、長々と書いた文章の要旨を、ここまで、遠い目をしながらふり返ってきました。


(先日、長々と書いた文章はこちら)


 思い返したのはつぎの3点でした、ね?

  1. 快さとか苦しさというのは何なのか。
  2. 西洋学問では、なぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか。
  3. 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか。


 今日、見たのは3でした。説をふたつ見ました。


 その途中で(説1を見ているところで)、快いか苦しいかといった区分はみなさんにとってとても大事なんだって確認したじゃないですか。その区分は、みなさんにとって、健康であるか、病気であるかといった区分に当たるんだ、って。みなさんは医学に、快いか苦しいかといった区分を気にしてほしがっているんだ、って。


 でも、見てきたように、医学には、快いか苦しいかといった区分は目に映らないわけですよ。


 みなさんはこのことをどう思い為しますか、ね?*2


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前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:「怖くて逃げられなかった」という証言について。

*2:2019年3月14日に文章を一部訂正しました。

科学は快さや苦しさをどういったものと誤解するのか、遠い目をしてふり返る(3/4)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回


 快さについてもこれとおなじことになります、よね? 病院で何も異常は見つからないのに、体調が芳しくないってこと、あるじゃないですか。説1にしたがうと、「身体機械」が正常でも、快さを感じているとは限らないということになります、よね? 


 そこから、身体機械が正常であるかどうかを知るのに、快さの感じは当てにならないということになって、結果、身体機械が正常であるかどうかは、身体機械だけを見て決めるべきだってことになりますよ、ね?


 このように、快さや苦しさを「身体機械が正常であるか、もしくは異常であるかを知らせる情報」と定義づけると、快いか苦しいかといった区分と、「身体機械」が正常であるか異常であるかといった区分はまったく別のふたつだってことになり、快いか苦しいかといった前者の区分は無視されることになるってことだったじゃないですか、ね?


 実際、快いか苦しいかといった区分って無視されてません?


 ちょっと考えてみてくださいよ。健康とか病気とかっていったい何ですかね? 


 みなさん、健康であると言うとき、そのひと言で、苦しまずに居られていることを表現しようとするんじゃないですか、ね? いっぽう病気であると言うときは、そのひと言で、苦しんでいることを言い表そうとするんじゃないですか、ね?


 健康であるとか病気であるとか言うことでみなさんが争点にするのは、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)じゃないですか、ね?


 そんなみなさんにとって、治るっていうのは、当然、苦しまずに居られるようになること、なんじゃないですか、ね?


 みなさんは医学に、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)といった区分を気にしてほしがっているんじゃないのかなあ。


 けど、西洋学問では、異常なひとも、異常な数値も、異常なかたちも、ほんとうはこの世に存在しないっていうのに、健康とは正常であること、病気とは異常であること、と定義づけてきたじゃないですか。医学が健康であるとか病気であるとかと言ってしきりに気にするのは正常であるか異常であるか、ですよ、ね? そんな医学にとって、治療とはあくまで正常になることを目的とするものであって、その目的実現のためには、治療を受けるとこうむることになる苦しさはどんなにつらいものであっても我慢すべきだってことなんじゃないですか、ね?


 さあ、今度は、訳のわからない説2のほうを見ていきますよ。


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