(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「正常か異常か」と「快いか苦しいか」はまったく別の区分

*科学するほど人間理解から遠ざかる第25回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったように快さや苦しさを理解すること*1は、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作をなす西洋学問にはできないとのことでした。


 では快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。いろんな誤解の仕方があるのかもしれませんが、ここではそのうちからふたつだけを見ることにしいまそのひとつ目を見ているところです


 それは、自覚症状があるとか無いとか言うときにひとがとる、ひろく世間で採用された解し方であると先に申しました。


 身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことであって、身体のうちに「身体の感覚部分」は含まれますけれども、西洋学問では身体を元素の寄せ集めにすぎないもの(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないと解します)と考えて機械と見なし(この身体をここでは「身体機械」とよんでいます)、「身体の感覚部分、心のなかにある、「身体機械についての情報とします


 そして、快さの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」、いっぽう苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とするというわけでした。


「身体機械」が正常であれば、「身体機械が正常であることを知らせる情報」が、「身体機械」各所から電気信号のかたちで発したあと、神経をつたって脳まで行き、そこで快さの感じに変換されて心のなかに認められるいっぽう、「身体機械」のどこかに異常があれば、「身体機械が異常であることを知らせる情報」が、当の箇所から電気信号のかたちで発したあと、神経をつたい脳まで行って、そこで苦しさの感じに変換されて心のなかに認められるとのことでした。


 ところがこのように解しますと快さや苦しさを一転無視するしか手はなくなります


 どういうことか。例をふたつもちいて考えていきます。


 紙でサクッと切った指が痛むとしましょう。この痛みを、すこし大げさになるかもしれませんが、苦しさとお考えください。みなさんにとって指というのは、言ってみれば、おなじ場所を占めている「指の感覚部分」と「指の物部分」とを合わせたもののことですけれども、西洋学問では、指を元素がただ寄せ集まったにすぎないものと考えます(この指を指機械とよぶことにします)。で、「指の感覚(部分)」を、心のなかにある、「指機械についての情報」と解します。さて、いま見ている快さ苦しさについての解釈でいけば、この指に感じる痛みは、心のなかにある、「指機械が異常であることを知らせる情報」であることになります。その情報は、指機械から発したあと、神経をつたって脳まで伝達され、そこでこうした痛み(苦しみ)に様式を変換されているということになります。


 しかしこうした痛みはものごとに集中していたりすると感じられなくなることしばしばです。集中が切れるとやおら、指がふたたび痛み出すといった具合です。


 いま見ている快さ苦しさについての解釈でいくと、この場合、何かに集中していて指に痛みを感じていないというのは、指機械に、切れているという異常がたしかにあるにもかかわらず、「指機械が異常であることを知らせる情報」が心のなかに認められなくなってしまっているという状態であることになります。


 したがって、現に苦しさ(この例では痛み)を感じていないことをもって、「身体機械に異常がないと断定することはにわかにはできないということになります。


 いっぽう、苦しみを感じているのに病院で検査しても、「身体機械」になんら異常が見つからないとされる場合も多々あります。ほんとうに苦しんでいるのに、不当にも仮病と言われ、つらい思いをしたことがあるひとはすくなくないのではないでしょうか。


 いま見ている快さ苦しさについての解釈でいけば、この場合、苦しみを感じているというのは、「身体機械に異常など実際は実在していないにもかかわらず、心のうちに、「身体機械が異常であることを知らせる情報」が認められてしまっているという状態であることになります。


 したがって、現に苦しさを感じていることをもって、「身体機械に異常があると断定することもまたにわかにはできないということになります。


 快さと苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であること、もしくは異常であることを知らせる情報」と解しますと、いまごらんいただいたように、快さを感じている(苦しさを感じていない)ことをもって、「身体機械」を正常と判定することもにわかにはできなくなるし、苦しさを感じていることをもって、「身体機械」を異常と判定することもまた、にわかにはできなくなります。結局、「身体機械」が正常であるか異常であるかを判定するのに快さや苦しさの感じは役に立たず、「身体機械そのものだけを見て判定すべきだということになります。結果、「身体機械」が正常であるか異常であるかの区分は、快いか苦しいかの区分とはまったく別のものとして仕上がるに至り、快いか苦しいかの区分は無視されたまま、うち捨てられることになります

第24回←) (第25回) (→第26回

 

 

何が正常とされ、何が異常とされるかについては、下の記事で書きました。「劣っているひとたちの、まさにひとより劣っている点」と医学に見えるものが、異常であることにされるのではないでしょうか。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:このシリーズ第3回から第7回②までで確認しました。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

伝統的な快さ苦しさの定義

*科学するほど人間理解から遠ざかる第24回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったように快さや苦しさを理解することは、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作をなす西洋学問にはできないとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。いろんな誤解の仕方がきっと西洋学問にはあるのでしょうけれども、それらすべてを調査するのは、実力をおもちのみなさんにお任せすることとして、ここではふたつの解し方だけを見ようとしています。


 いまから最初に見るのは、自覚症状という医学用語が口にされるとき採用されている、みなさんにお馴染みのものです。


 伝統的で、広く世間に流布している見方と言えるのではないでしょうか。


 先に、身体について確認を済ませておきました。みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことです。身体のうちに身体の感覚部分は含まれます


 けれども西洋学問では、身体は元素の集まりでしかないことにされ(西洋学問では「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない」と考えられます)、機械と見なされます(身体機械)。そして「身体の感覚部分、心のなかにある、「身体機械についての情報」と解されるとのことでした。


(身体については下の記事で確認しました)


 いまから見ていくひとつ目の解し方では、「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」とするその見方にもとづいて、つぎのように快さと苦しさがそれぞれ定義づけられます。


 西洋学問ではひとを正常なものと異常なものとに二分します。話のいちばんはじめに申しましたように、前者、正常なものを健康とか健常と、後者、異常なものを病気とか障害者とよぶとのことでした。


 ここでは論の展開上、結論だけ申し上げることにしますが、実際のところ、異常なものはこの世に存在し得ません。異常な機械も、異常な気象も、異常なひとも、これまでこの世に存在したこともなければ、これから存在することも絶対にありません。機械も、気象も、ひとも、たったひとつの例外もなくみな正常であると言うよりほかありません。


(異常なひとは存在し得ないということを確認したのは下のシリーズ)


 しかし西洋学問では、医学の名のもと、一部のひとたちを異常と判定してきましたし、これからもそうしつづけるだろうと、どなたも強い確信をもって予測なさるのではないでしょうか。実に西洋学問ではこのように、どのひとのことも正常としか判定できないにもかかわらず、一部のひとたちを、権威の名のもと、不当にも異常と決めつけ差別します。それが差別であるとはおそらく気づかずに、でしょうけれども。


 さて、医学は「身体機械」の状態をこうして正常と異常に二分するのにあわせて、「身体の感覚(部分)」のほうも、快さの感じと苦しさの感じのふたつに分けます。で、「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」とする見方にもとづいて、快さの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」と、かたや苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とそれぞれします。


身体機械についての情報」が、「身体機械」各所から発したあと、電気信号のかたちで神経をつたって脳まで行き、そこで「身体の感覚(部分)」に変換され、心のなかに認められるといった情報伝達なるものを西洋学問では考えると何度も申し上げてきましたが、「身体機械についての情報」には「身体機械が正常であることを知らせる情報」と「身体機械が異常であることを知らせる情報」のふたつがあって、「身体機械」の状態が正常であれば、前者の「身体機械が正常であることを知らせる情報」が電気信号のかたちで「身体機械」各所から出たあと、神経をつたって脳に行き、そこで、快さとよばれる「身体の感覚(部分)」に変換されて心のなかに認められるいっぽう、「身体機械」のどこかが異常であれば、当の箇所から出た「身体機械が異常であることを知らせる情報」が、電気信号のかたちで神経をつたって脳に行き、そこで苦しさとよばれる「身体の感覚(部分)」に変換されて心のなかに認められる、と解するといった次第です。


 どうでしょう。自覚症状という医学用語を自家薬籠中の物としているひとには、いま俺が言っていることがビシビシ響くのではないかとみなさん、お感じになりませんか。


 自覚症状があるとひとが言うとき、そのひと言で、「身体機械某所が異常であることを知らせる情報(心のなかに)認めているといった意味合いのことを言おうとし、自覚症状がないと言うときには、「身体機械」某所が異常であるにもかかわらず、「身体機械某所が異常であることを知らせる情報(心のなかに)認められていないといったようなことを言おうとしているのではないでしょうか。


 以上、快さの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」、苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とそれぞれする、西洋学問の解し方を最初に確認しました。


第23回←) (第24回) (→第25回

 

 

以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問では快さや苦しさが何であるかをなぜ理解できないのか確認します。19回③まで)


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回


第20回(最後に、西洋学問では快さや苦しさを何と誤解するのか確認します。)


第21回


第22回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

西洋学問に見られる、快さ苦しさについての定義3つ

*科学するほど人間理解から遠ざかる第23回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということですけれども、西洋学問では、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけになすことによって、快さと苦しさをそうしたものと理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではいったいどういったものと誤解するのか。それを最後に見ようとしているところです。


 ちょうど先刻、西洋学問では「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」と解する旨、確認しました。


 みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことであって、「身体の感覚部分」は身体のうちに含まれますけれども、西洋学問では身体は元素(見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないと西洋学問では考えらます)の集まりでしかないもの身体機械)と考えられ、「身体の感覚部分、心のなかにある、「身体機械についての情報と解されるというわけでした。


 現代科学では、「身体機械について情報、「身体機械」各所から、電気信号のかたちで、神経をへて脳に送られ、そこで感覚に様式を変換されたのが、痛いとか熱いとか冷たいとかカユイといった「身体の感覚(部分)」であるといったふうに説明されます。参考程度に脳科学者のつぎの文章をご一読ください。

「触れている」、「痛い」、「熱い」、「冷たい」、「かゆい」など、ふだん私たちが皮膚で感じているすべての感覚をまとめて、「体性感覚」と言います。アリストテレスは「触覚」と言っていましたが、将来、脳科学者を目指すみなさんは「体性感覚」という用語を使いましょう。


 皮膚の下の真皮には「マイスナー小体」や「パチーニ小体」と呼ばれる感覚器があります。圧力や振動などの機械的な刺激(いわゆる触覚刺激)はそこで受容され、感覚神経に伝えられます。皮膚の下には、そのほかにも「自由神経終末」が存在し、「熱い」「冷たい」を感じる「温度センサー」や「痛い」「かゆい」などを感じるための「化学センサー」として働く、イオンチャンネルや受容体などの分子装置が存在しています。


 また、私たちが普段はあまり意識をせずに使っている体性感覚として、深部知覚(あるいは固有感覚)があります。それは関節・筋・腱に存在する特殊な受容器が機械的刺激を受け取り、手や足など身体の各部分の位置や運動の状態、加わる抵抗や重量などを知覚する働きを担っています。(略)違ったモダリティ〔引用者注:視覚、聴覚、嗅覚、味覚はモダリティが違っていると表現されるものと思われます〕の刺激情報は、基本的に異なった神経繊維を通って、「脊髄」、「視床」を経て、大脳皮質の体性感覚野へと伝えられていきます(理化学研究所脳科学総合研究センター編『脳科学の教科書(神経編)』岩波ジュニア新書、pp.114-115、2011年、ゴシックは引用者による)。

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

 


 西洋学問では、現実に反して身体を「身体機械」とし、「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」とするこうした見方にもとづいて、快さや苦しさを定義づけます


 俺が西洋学問のうちに見かけた、快さ苦しさについての定義は計3つで、ひとつはプラトンによるもの、ひとつは広く世間に流布されたデカルト流のもの、もうひとつは現代脳科者のものですけれども、寡聞な俺のことです、定義はもっと他にもたんまりあるのに、それら3つにしか気づいていないというところではないでしょうか。ですが、みなさん、そうした定義すべてを網羅することは、俺なんかにはお求めにならず、豊富な知識と、調査を着実に遂行しきる能力とをお持ちのみなさんご自身にご依頼ください。きっと、みなさんのご期待を裏切らないご回答を手になさることがおできになるはずです。


 モチはモチ屋、俺はただのド素人。背伸びすることなく、自分にできるおおざっぱなおしゃべりに今後も邁進してゆく所存です。


 以後、順につぎのふたつの定義を見ていきます。

  1. 広く世間に流布している、デカルト流の快さ苦しさについての定義
  2. 現代科学者による、アカデミックな快さ苦しさについての定義


 前記、プラトンによる定義は各位、『ピレボス』にてお楽しみください。

ピレボス (西洋古典叢書)

ピレボス (西洋古典叢書)

 


 前記1は、自覚症状が有るとか無いとか言われるときに採用されている定義で、前記2は、快さを快情動、苦しさを不快情動と見てなす定義です。


 順に見ていきます。


第22回←) (第23回) (→第24回

 

 

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西洋学問が身体感覚を「身体機械についての情報」とする理由

*科学するほど人間理解から遠ざかる第22回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しんでいるというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということですけれども、西洋学問では、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけになすことによって、快さや苦しさが何であるか理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。それをいま、この文章を閉じるまえに見ようとしているところです。


 西洋学問では、「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切な操作をなし、

  • Ⅰ.俺が現に目の当たりにする物の姿、現に聞く音、現に嗅ぐ匂い、現に味わう味、現に感じる「身体の感覚(部分)」など、俺が体験するもの一切を俺の心のなかにある像であることにし
  • Ⅱ.俺の心の外には、ただ「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素だけが実在する


 ということにします。


 そうして身体をただの元素の集まりにすぎないものと解して機械(身体機械)と見、「身体の感覚(部分)」、心のなかにある、「身体機械についての情報」とするとのことでした。


 こうした「身体の感覚(部分)」の解し方をもうすこし詳しく見てみます。


 俺が自分の目のまえに左手をかざしているある一瞬をお考えください。身体とはみなさんにとって、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分身体の物部分」とを合わせたもののことであるとずっとまえのほう*1で確認しました。みなさんにとって左手とは、言ってみれば、おなじ場所を占めている「左手の感覚部分左手の物部分」とを合わせたもののことと申せます。


 この例の瞬間に俺が目の当たりにしている自分の「左手の物部分」の姿は、俺の眼前数十センチメートルのところにあります。また、そのとき俺の「左手の感覚部分」もそれとおなじ場所を占めています。


 ところが、ちょうど先ほど見ましたように、西洋学問では、

  • Ⅰ.俺が体験するもの一切を、俺の心のなかにある像であることにし、
  • Ⅱ.俺の心の外には、ただ元素しか実在しない


 ということにします。そんな西洋学問の手にかかると、俺がこのときに目の当たりにしている自分の「左手の物部分の姿と、そのときの俺の「左手の感覚部分とは共に、俺の眼前数十センチメトールのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像と感覚であることになります。そして、俺の眼前数十センチメートルのその場所には、単なる元素*2の集まりでしかない左手が実在していることになります。


 左手には「左手の感覚部分」が含まれないことになります。


 科学が左手と考えるこの元素の集まりでしかないものを、左手機械とよぶことにしましょう。


「この左手機械についての情報」が、「左手機械」の各所から、電気信号のかたちで神経を伝って脳にいき、そこで映像と感覚に変換されて心のなかに認められたのが、その瞬間に俺が現に目の当たりにしている「左手の物部分」の姿と、その瞬間の俺の「左手の感覚部分」であると西洋学問では考えるわけです。このように西洋学問では、「左手の感覚部分、心のなかにある「左手機械についての情報」であることにします。


 西洋学問では、左手を「左手機械」、いっぽう「左手の感覚部分」を心のなかにある、「左手機械についての情報」とするこの要領で、

  • A.身体を「身体機械」とし、
  • B.「身体の感覚部分、心のなかにある、「身体機械についての情報」であることにする


 といった次第です。


 西洋学問では、こうした身体の見方にもとづいて、快さや苦しさを定義づけます。


第21回←) (第22回) (→第23回

 

 

このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:第10回のことです。

*2:見ることも触れることもできず、音も匂いも味もしないものと西洋学問では考えられます。

西洋学問では身体感覚は「身体機械についての情報」とされる

*科学するほど人間理解から遠ざかる第21回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しんでいるというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということですけれども、「絵の存在否定という不適切な操作をなす西洋学問では、存在を事実に反して、無反応で在るもの(客観的なもの)と定義づけることによって、快さや苦しさが何であるか理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。それをいま、この文章を閉じるまえに見ようとしています。


 そのために、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をふたたびみなさんにご想像いただき、復習するところからはじめました。


 西洋学問では、「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切な操作を立てつづけになし、

  • Ⅰ.俺が現に目の当たりにしている大木の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像であることにし
  • Ⅱ.その代わりに、俺の前方数十メトールのその場所には、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まりでしかないホンモノの大木が実在している


 ということにします。


 そうして、俺が現に目の当たりにしている大木の姿を、俺の心のなかにある、「ホンモノの大木についての情報」であるとするとのことでした。


 西洋学問ではこの要領で、

  • Ⅰ.俺が現に目の当たりにする物の姿をはじめ、俺が聞く音、嗅ぐ匂い、味わう味、感じる「身体の感覚(部分)」など、俺が体験するもの一切を、俺の心のなかにある像にすぎないことにし、
  • Ⅱ.その代わりに俺の心の外には元素だけが実在する


 ということにします。


 で、音なら、現にみなさんが耳になさるあの音ではなく、空気の震動(元素の運動)のことであるとし、匂いなら、ふだんみなさんがお嗅ぎになるあの臭かったり香しかったりするあの匂いではなく、匂い分子(元素の組み合わさったもの)のことと、また味なら、みなさんが舌ヅツミをお打ちになるあの味ではなく、味物質(同上)のこととしたうえで、現にみなさんがお聞きになる音のほうを、みなさんの心のなかにある、「空気の振動についての情報」、現にみなさんがお嗅ぎになる匂いを、みなさんの心のなかにある、「匂い分子についての情報」、現にみなさんが味わわれる味を、みなさんの心のなかにある、「味物質についての情報」、であることにそれぞれします。


 同様にして俺の身体についても、元素がよせ集まったにすぎないものと解して機械と見なし(身体がそうしてしばしば「身体機械」とよばれると申し上げるのはこれがはじめてでしょうか)、俺が現に感じている「身体の感覚(部分)」、俺の心のなかにある、「俺の身体機械についての情報」であることにします*1

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

 


 こうした「身体の感覚(部分)」についての解し方をこれから詳しく見ていきます。


第20回←) (第21回) (→第22回

 

 

以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問では快さや苦しさが何であるかをなぜ理解できないのか確認します。19回③まで)


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:みなさんが何をもって身体とするか、下の回で確認しました。

西洋学問では快さや苦しさをどう誤解するか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第20回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しんでいるというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると最初にいきなり申し上げたあと、つぎのような流れでここまでおしゃべりしてきました。

第1部.快さと苦しさがそうしたものであることを補足解説する*1

第2部.西洋学問では、なぜ快さ苦しさが何であるか理解されてこなかったのか確認する*2


 最後に、西洋学問では、快さや苦しさがどういったものと誤解されるのかを見て、この文章を閉じることにします。


 みなさん、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をふたたびご想像くださいますか。


 何度も申しますように、その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿は、俺の前方数十メートルのところにあります。大木がその瞬間、俺に見えているというのはすなわち、たがいに数十メートル離れたところにある大木の姿と、俺の身体とがそのとき、「俺のしている体験(大木を見ているという体験)に共に参加している」ということだと言えます。


 ところが西洋学問ではここで「絵の存在否定」という不適切な操作*3をなすというわけでした。その操作はこの場合、つぎのふたつからはじまると先に申しました。

  1. そのとき大木と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  2. しかし大木と俺の身体とを、「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると考える(部分であることの否認)。


 するとどうなったか、覚えていらっしゃいますか。


「大木を見ているという俺の体験」は存在していないことになって、俺にはそのとき大木が見えていないことになり、見えていない大木と俺の身体とがたがいに離れた場所にただバラバラにあるだけ、ということになりました。


 けれども実際、その瞬間、俺には大木が見えています。


 そこで西洋学問では、そのとき俺に大木が見えていないということにするため、意識とか心とかコギトとかとよばれるケッタイなものをもちだしてきます。そしてその瞬間に俺が現に目の当たりしている大木の姿(ほんとうは俺の前方数十メートルのところにある)俺の心のなかにある映像にすぎないことにします、とは、先にも申しましたとおりです。


 で、俺の前方数十メートルの場所にはその代わりに、見ることの叶わないホンモノの大木が実在していることにし、それを、ただ無応答で在るだけのもの(客観的なもの)と決めつけるとのことでした(この存在のすり替え作業を「存在の客観化」と名づけたのを覚えてくださっているでしょうか*4)。


 このようにただ無応答で在るだけのものと想定されたホンモノの大木とはどのようなものか、ここでは簡単に結論だけを申しますと、それは元素(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものと考えられます)の集まりでしかないもの、です。


 事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切な操作を立てつづけになす西洋学問ではこのように、

  • Ⅰ.俺が現に目の当たりしている大木の姿を、俺の心のなかにある映像であることにし
  • Ⅱ.俺の前方数十メートルの場所にはその代わりに、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」の集まりでしかないホンモノの大木が実在していることに


 します。そのホンモノの大木についての情報が、当の大木から、光にのって眼にやってきて電気信号にかたちを換え、以後、神経をつたい脳まで行って、そこで映像に変換され心のなかに認められたのが、そのとき現に俺が目の当たりにしている大木の姿である。そう説くのが西洋学問の知覚論です。

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

 


 いま、西洋学問では、俺が現に目の当たりにしている大木の姿が、俺の心のなかにある、「ホンモノの大木*5についての情報」と解される旨、確認しました。以上を踏まえて、快さや苦しさが西洋学問では何と誤解されるのか、見ていきます。


第19回①←) (第20回) (→第21回

 

 

このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:第3回から第7回②まで。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

*2:第8回から第19回③まで。

第8回


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回

*3:これまでしつッこく何度も何度もくり返し「絵の存在否定」という科学の奇っ怪な出発点について書いてきました。

*4:科学が「絵の存在否定」という不適切な操作にひきづづいて為す「存在の客観化」という作業についても、繰り返し書いてきました。

*5:心の外に実在していると考えられる、元素の集まりにすぎないもの。

西洋学問に人間が理解できなくなった瞬間③

*科学するほど人間理解から遠ざかる第19回


 以上、物を見るということについて確認しなおす、いわゆる〈出発点〉で、西洋学問が「絵の存在否定」という不適切な操作をどのようになすか、例をもちいて見てきました。


 結果、こういうことにするとのことでした。

  • 俺が現に目の当たりにしている物の姿(もちいた例では、大木の姿)を、俺の心のなかにある映像であることにする。
  • .その代わりに、俺の前方にある物を、ただ無応答で在るだけの、見えることのないものであることにする。


 西洋学問ではこの要領で、俺が現に聞いているスタジアムの歓声(音)も、俺が現に嗅いでいるコーヒーの匂いも、俺が現に味わっているチョコレートの味も、何もかも、俺が体験しているものはみな俺の心のなかにある像にすぎないということにします。物も、音も、匂いも、味も、存在するものはすべてただただ無応答に在るだけで、見ることも触れることも聞くことも嗅ぐことも味わうこともできない、ということにします。


 先に、快さ苦しさが何であるかを俺が理解するに至った道筋をみなさんと一緒にたどっているさい*1いわゆる〈第2地点〉で、存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認しましたけれども、「絵の存在否定」という不適切な操作をなす西洋学問のもとでは、いま確認しましたように、存在同士は一転お互いに無応答であることにされます*2


 西洋学問ではいわゆる〈第2地点〉を通過できないことがいま、確認されました。


 これでは、〈第3地点〉以後には進めず、快さ苦しさが何であるかを理解する〈第5地点〉にはたどり着けないと言うべきではないでしょうか。


 西洋学問ではこれまで、快さ苦しさが何であるかは理解されてきませんでした。これからも理解されることはないものと思われます。


第19回②←) (第19回③) (→第20回

 

 

後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:10


ひとつまえの記事(②)はこちら。


今回の最初の記事(①)はこちら。


前回(第18回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

whatisgoing-on.hateblo.jp

 

*1:その道筋は箇条書きで書けばこういったものになるとのことでした。

出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。

第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認する。

第3地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るというのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。

第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。

第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。

*2:存在をこうした別ものにすり替える作業を、「存在の客観化」と俺はよんでいます。近代哲学の祖で、科学が歩みゆく道を切り開き、整備したデカルトが、この「存在の客観化」を著書でくわしく披瀝しています。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

 

ちなみに、その模様については以下のシリーズで書きました。