(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

歩くのはティームプレイ、じっとしているのもティームプレイ

*科学するほど人間理解から遠ざかる第15回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しみを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところからたどっています


 俺が大木めがけて並木道を歩いている場面を、先ほどよりみなさんにご想像いただいてきました。そうして、つぎのことをご確認いただきました。

1.大木や身体をはじめ、存在(音、匂い、味などを含む)がみな、「他のもの*1と共に在るにあたってどのようにあるかという問いに終始答えること

2.大木に歩みよっているあいだ(だけには限られませんが)、大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在ること*2


 先に申しましたように、みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことです。そのことをここで考え合わせてみます。


 ご想像ください。俺が並木道を大木めがけて歩いているのを。それは、いまも申しましたように、大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在るということでしたけれども、それはさらに俺の身体を細かく崩していえば、こうなります。大木、俺の身体の感覚部分」、俺の身体の物部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在る、ということに。


 以上、俺が大木めがけて歩いている場面をご想像いただきながら、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在るのをご確認いただきました。


 では、身体を「身体の感覚部分」と「身体の物部分」のふたつに崩したついで、誠に勝手ながら、それらふたつの間柄を、先に進むまえに簡単に確認させておいていただくことにします。


 俺が大木に歩みよっている場面を引きつづきご想像ください。ただし、話を強引にも「身体の物部分」と「身体の感覚部分」の間柄だけにしぼったうえで、確認を進めさせていただきます。


 俺が歩いているあいだ、俺の身体はたえず前方に移動します。それは、

  • Ⅰ.俺の「身体の物部分」が、「俺の『身体の感覚部分』と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えると同時に、
  • Ⅱ.俺の「身体の感覚部分」のほうも、「俺の『身体の物部分』と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えてのこと


 であると言えます(ただしいま申し上げたばかりですが、「身体の物部分」と「身体の感覚部分」の間柄以外は一切無視しています)。


 つまり、俺の「身体の物部分」と「身体の感覚部分」が、応答し合いながら共に在ってのことである、というわけです。


 もちろん、申し上げるのは早くも3度目となってしまいますが、これはあくまで「身体の物部分」と「身体の感覚部分」の間柄にのみ話をしぼったうえでの(ムチャな)確認であって、厳密には、俺の身体が前方に移動するというのは(もちろん移動しない場合にも言えることですが)、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在ってのことである、と言うべきですけれども。


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以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問で快さと苦しさが何であるか理解できてこなかった理由を確認します。第19回③まで)


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:「他」と書いていたところを「他のもの」に変更しました。以下同様。2018年10月13日

*2:大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が互いに、「他のものと共にあるにあたってどのようにあるか」という問いに答え合うことを、以後このように「応答し合いながら共に在る」と表現することにしました。

存在同士はおなじティームのメンバーである

*科学するほど人間理解から遠ざかる第14回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところからたどっています


 俺がいっぽんの大木に歩みよっている場面をいまみなさんにご想像いただいています。


 大木は、俺が歩みよるつれ、姿を刻一刻と大きく、かつくっきりさせていき、太陽が雲間にかくれれば俺の目のまえでその姿を薄暗く、ふたたび太陽が雲間から顔を覗かせれば姿を黄色っぽくし、風が吹けば姿をゆすり、俺の真んまえに背の高い他人がすべり入ってくれば、姿全体まるごとひとつを「見えないありよう」に変え、ガサガサいう音が再度すればとたんにその姿を、他人の身体ごしにゆするとのことでした。


 こうした大木のありようを俺はつぎのように表現しました。


 大木は、「他のもの*2と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答える、と(大木は対他であるとも申しましたが……)。


 しかし、このような問いに答えるのは、大木だけに限らないのではないでしょうか。


 俺の身体についても見てみます。


 みなさんにいまご想像いただいていますように、並木道を大木に向かって歩いていくというのは、まさに俺の身体にとって、「他のもの(大木、太陽、雲、道、他人の身体、音等)と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えていくことに他ならないのではないでしょうか。


 いま大木が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものであること、そして俺の身体もおなじくそうであることを確認しました。これらふたつしか見ないでいきなりつぎのように断定申し上げるのはいささか気がひけ、顔面がブザマにひきつりますが、賢明なみなさんになら何の支障もないだろうと思われます。


 物や身体のみならず、存在(空いている場所、音、匂い、味などを含む)はどれもみな、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである、と。


 みなさんには、俺が並木道を大木に向かって歩いている場面をご想像いただいてきました。すなわち、大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が互いに、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答え合っているのをご確認いただきました。ご確認いただきましたこのことを以後、意味はそのままに(少々言葉足らずな気がして胃が痛みますが)つぎのように表現していくことにします。大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在る、と*3


 みなさんにはここまで、俺が大木に歩みよっている場面をご想像いただいてきました。それは、大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在るのをご確認いただくことだったという次第です。


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*1:快さと苦しさがこういうものであることを以下の回で確認しました。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

*2:「他」と書いていたところを「他のもの」に変更しました。以下同様。2018年10月13日

*3:この場合の「応答する」とは、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えること、また「応答し合う」の「合う」は、その問いに同時に答えるものが複数あることを意味します。

大木、まわりの空気を読む

*科学するほど人間理解から遠ざかる第13回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところからたどっています


 いまみなさんには、青空のもと、こどもたちの黄色い歓声や桜色の花びらが舞うなか、俺が、並木道を、黒、茶、金、白、薄だいだい色等のあたまの数々のなかに混じって、緑色に燃えあがったいっぽんの大木めざし、歩みよっている場面をご想像いただいています。


 大木は、俺が歩みよるにつれ、刻一刻と姿を大きくかつ、くっきりさせていくということでした。瞳を閉じれば、大木はその姿全体まるまるひとつを「見えないありよう」にし、ふたたび目を開ければ、俺のほうを向いた面の上ッ面だけきっちり「見えるありよう」に変えて俺を待ちうける。またサングラスをかければ、それまでのどこか黄色っぽい姿を、一気に黒い姿に変更する、とのことでした。


 こうした大木のありようを俺は、うまく表現できないもどかしさにクチビルを真っ赤に噛みやぶりながら、こう表現しました。


 大木は、「俺の身体と共に在るにあってどのようにあるか」という問いに、終始答える  *2


 大木についてさらに見ていきます。


 大木は、太陽が雲間にかくれれば俺の目のまえでその姿を薄暗くし、ふたたび太陽が雲間から顔を覗かせれば、姿をまた黄色っぽくします。


 大木は、「太陽や雲と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも答えます。


 風が吹くと、大木は身をゆすります。大木は、「風と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも答えます。


 俺の真んまえに背の高い他人がすべり入ってくれば、大木は、そのひとの身体の向こうで、その姿全体まるごとひとつを「見えないありよう」に変えます。そうして、「他人の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも答える旨、示します。


 引きつづいてガサガサいう音が再度すれば、大木はそくざに、まるごと全部が「見えないありよう」を呈しているその姿を、他人の身体ごしにゆすって、「音と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるところを俺に見せつけ(?)もします。


 さあ、ここまで見てきたような大木のありようをみなさんは、どう表現なさいますでしょうか。


 みなさんの代わりにここで俺がおのれの口から出せる言葉は、お恥ずかしながら、こんなところです。


 大木は、「他のもの(俺の身体や太陽や雲や他人の身体や音等)*3と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、終始答える  


 いやそれとも、哲学用語を使って、大木は対他である、とでも言った方がいいのでしょうか(対他の関連用語は、即自や対自であると申し添えると蛇に足が生える気がしますが……)。どう表現したものか悩みます。


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*1:快さと苦しさがそのようなものであることを第3回から第7回②にかけて確認しました。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

*2:先に挙げました表現案2と3は割愛します。ちなみに表現案2と3はそれぞれつぎのとおりです。

案2.大木は、応答しながら俺の身体と共に在る。

案3.大木は、俺の身体と共に在るにあたって応答する。

*3:「他」と書いていたところを「他のもの」に変更しました。2018年10月13日

大木は俺の身体を無視できない

*科学するほど人間理解から遠ざかる第12回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋をたどっています


 その道は、物を見るということについて確認しなおすところからはじまると先に申しました。そしてちょうどいま、実際に確認しなおしてみました。俺が並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿と、その瞬間の俺の身体とがそれぞれどんなふうにあるか確認したあと、たがいに数十メートル離れたところにあるそれら大木の姿と、俺の身体とが、そのとき、俺のしている体験(大木を見ているという体験)に共に参加している、すなわち、それらふたつが共に、俺のしている体験の部分であるのを確認したという次第です*1


 では、そうして確認した、みなさんにとってはごくごく当たりまえのことどもを踏まえたうえで、つぎに参りましょう。


 ここまで、俺が大木を見ているある一瞬をご想像いただいてきましたけれども、ここからは俺が大木に歩みよっている場面をご想像いただきます


 ご用意はよろしいでしょうか。


 みなさん、活き活きとご想像ください。


 青い空、こどもたちの黄色い歓声、かぜに舞う桜色の花びら、並木道には、黒、茶、金、白、薄だいだい色等のあたまの数々、俺の前方には緑色にもえあがったいっぽんの大木。


 俺はその大木に歩みよっています。


 みなさん、ご想像くださっているでしょうか。俺がその大木に歩みよるにつれ、俺が目の当たりにしている大木の姿が刻一刻と大きくなっているのを。


 もちろん、大木の実寸が刻一刻と大きくなっていると申しているのではありません。実寸は俺が歩みよっているあいだ変わらず一定です。刻一刻と大きくなっているのはあくまで大木の、姿、です。そうして姿が一瞬ごとに大きくなればこそ、大木の実寸もつねに一定に保たれ得るというものです。


 俺が歩みよっているのに、大木の姿がまったく大きさを変えていなければ、俺は大木の実寸が刻一刻と縮んでいっているのをまざまざと目撃していることになるじゃありませんか。


 俺が歩みよるにつれ、大木は刻一刻と姿を大きくしていきます。その姿を一瞬ごとにくっきりさせてもいきます。遠方でボヤけていた姿が、いつのまにか、木目の細部までありありとわかるようにくっきりしています。


 また、歩みよっている途中で俺が瞳を閉じれば、大木は姿全体まるまるひとつを「見えないありよう」に変え、ふたたび俺が目をさっと開ければ、俺のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」にして俺を待ち受けます。俺がサングラスをかければ、それまでのどこか黄色っぽい姿を、一転、黒い姿にとって変えもします。


 さて、こんな大木のありようをみなさんなら、なんとご表現になるでしょう。俺はいまのところつぎのような表現しか思いつかず、壁を、頭から滲み出る赤色で染めています。

  • 案1.大木は、「俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、終始答える  
  • 案2.大木は、応答しながら俺の身体と共に在る
  • 案3.大木は、俺の身体と共に在るにあたって応答する


 みなさんはどうご表現になりますでしょう。よろしければ是非ともご教示ください。

つづく


前回(第11回)の記事はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問で快さと苦しさが何であるか理解されてこなかった理由を確認します。第19回③まで)


第9回


第10回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月23日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

物を見るとはどういうことか俺はこのように理解した

*科学するほど人間理解から遠ざかる第11回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところから、みなさんと一緒にたどることにしました


 そして早速、物を見るということについて確認しなおすべく、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、つぎのふたつについて確認しました。

  1. その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿
  2. その瞬間の俺の身体


 確認したのはそれぞれこういうことでした。

  • 確認1.その瞬間、大木は、俺の前方数十メートルのところに、俺のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」、それ以外のところはすべて「見えないありよう」といった姿で在る。
  • 確認2.その瞬間、俺の「身体の物部分」は、俺自身にたいして、全体まるまるひとつが「見えないありよう」を呈した姿で在る。そして、「身体の感覚部分」があるのとおなじ場所を占めている(おなじ場所を占めている「身体の物部分」と「身体の感覚部分」とを合わせたものが身体である)。


 さて、俺の前方数十メートルのところにあるその大木の姿(確認1)をこのとき俺は目の当たりにしているわけです。たがいに数十メートル離れたところにある、その大木の姿と、その瞬間の俺の身体(確認2)とは、このとき、俺のしている(大木を見ているという)体験に共に参加していると言えます。すなわち、それらふたつは、このとき共に、俺のしている体験の部分です。

  • 確認3.たがいに数十メートル離れたところにある、大木の姿(確認1)と、俺の身体(確認2)とは、このとき、「俺のしている体験に共に参加している(共に、俺のしている体験の部分である)」*1


 いま、物を見るということについて確認しなおしました。おそらくみなさん、キツネにつままれた思いでいらっしゃるのではないでしょうか。3点確認しなおしましたけれども、いずれもみなさんにとってみれば、ごくごく当たりまえのことばかりで、わざわざ確認するほどのものとはお感じになれなかったにちがいありません。


 ですが、これらの確認がずいぶんあとになってからビシバシと効いてくること、請け合いです。


 さあ、いま確認しましたところを踏まえ、今度は大木を見ている俺を動かせてみることにしましょう。

つづく


前回(第10回)の記事はこちら。


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*1:「さて」からはじまるこの段落部分の表現の一部を、内容は変えずに、2018年10月23日に改めしました。

身体とは何か、みなさん素直にお語りになれ

*科学するほど人間理解から遠ざかる第10回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところから、みなさんと一緒にたどることにしました。


 で、物を見るということについて確認しなおすべく、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、まずつぎのふたつを確認することにしました。

  1. その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿
  2. その瞬間の俺の身体


 ちょうど先ほど、前記1の確認を終えました。こういうことでした。その瞬間、大木は、俺のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」を呈し、それ以外の部分はすべて「見えないありよう」を呈しているといった姿で、俺の前方数十メートルのところに存在している。


 引きつづき、前記2「その瞬間の俺の身体」について確認します


 その瞬間、頭のてっぺんから足の先までひと連なりになっている俺の身体感覚があるのとおなじ場所には、もうひとつ別のものがあります。それは何だとみなさんお考えになりますか。


 それは、見ようとすれば見ることができ、触れようとすれば触れることのできるものだと言えるでしょうか。


 そうです、みなさんが、、とおよびになるものです。


 俺の頭のてっぺんから足の先まで、感覚というふたつの別もの同士が、お互いおなじ場所を占めているわけです。


 前者の感覚はいまも申しましたようにひろく世間では身体感覚とよばれていますが、ここでは以後、身体の感覚部分とよぶことにします。後者の物のほうを身体の物部分とよばせていただくのに合わせて。


 前方数十メートルのところにある大木の姿を目の当たりにしているこの瞬間、俺の「身体の物部分」は俺自身にたいして、まるまる全部が「見えないありよう」を呈した姿をとっています。そして、俺の「身体の感覚部分」があるのとおなじ場所を占めています。もしその瞬間に俺が、数日まえに噛まれた右手の小指を見ていれば、俺の「身体の物部分」はそのとき、右手のあたりの、俺のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」、それ以外のところはすべて「見えないありよう」といった姿をとっていたでしょうけれども(噛んだのはネコであるという情報は入り用でしょうか)。


 俺が長らくみなさんを密かに、かつネチっこく観察してきて(キモいですね......)思うに、みなさんにとって身体とはこのように、おなじ場所を占めている「身体の物部分」と「身体の感覚部分」とを合わせたもののことです。


 以上、大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、前記2「その瞬間の俺の身体」についても確認し終えました。

つづく


前回(第9回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:快さと苦しさがそういうものであることを以下の回で確認しました。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

西洋学問ではなぜ快さや苦しさが何であるか理解されてこなかったのか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第9回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであるいっぽう、苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると最初に確認しましたけれども*1、西洋学問では、快さや苦しさをそのようなものと理解できてはきませんでした。


 なぜ理解できてこなかったのかを明らかにするために、快さや苦しさをいま申し上げたようなものとして俺が理解するに至った道筋を、ワタクシごとで恐縮ですが、これからごらんいただきます


 その道は、物を見るということについて確認しなおすところからはじまりました


 では、そこから見ていきます。


 みなさん、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を、俺が数十メートル離れたところから見ている、ある一瞬をご想像ください。


 その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿と、そのときの俺の身体について、それぞれ順に確認していきます。


 参ります。


 まずみなさんにお尋ねします。その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿はどこにあるとお考えになりますか。


 そうです、その姿は俺の前方数十メートルのところにあります。


 さあ、俺の前方数十メートルのところにあるその大木の姿がどのようにあるか、確かめていきましょう。


 その瞬間、俺にはその大木が見えていますけれども、よく考えてみますとすぐに、その大木まるまるひとつが余すところなく全部見えているのではないことに気づきます。あくまでその瞬間、俺に見えているのはその大木の、俺のほうを向いた面の、上ッ面だけです。側面も見えていなければ、後ろっかわも、中身も、土の下で伸びている根っこもまったく見えてはおりません。


 となりますと、その瞬間の俺はこう思いなしているべきなのでしょうか。自分の前方数十メートルのその場所に存在しているのは、当の大木の、自分のほうを向いた面の、現に見えている、厚みのない上ッ面だけであって、見えてはいない、その側面や、後ろっかわや、中身や、土の下の根っこは、存在していないのだ、と? 


 いや〜、とんでもない、素直にこう思いなしているべきでしょう。その瞬間、当の大木の、側面も、後ろっかわも、中身も、土の下も、見えないありようとでもいうべき姿で、自分の前方数十メートルのその場所に存在しているのだ、と。


 つまり、その瞬間、自分の前方には、向こうが透けて見えるというありようで、空いた場所がずっとつづいていて、大木は、自分から離れること数十メートルのところに、自分のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」、それ以外の部分はみな「見えないありよう」といった姿で存在しているのだ、と。


 もし大木がそのとき、俺の前方に広がっている視野とよばれる領域の外にあったら、まるまる一本すべてが「見えないありよう」といった姿で存在していることになりますが。


 並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、その一瞬に俺が目の当たりにしている大木の姿についてまず確認しました。


 つぎはそのときの俺の身体について確認します。

つづく


前回(第8回)の記事はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さや苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:第3回から第7回②まで